やちむん
●やちむんとは
沖縄では、焼物のことを「やちむん」と呼び、食器や泡盛の容器として永く愛用されてきました。
古くは、城の瓦などを主体に作られていたと推測されているが、14世紀頃から始まる海上貿易によって南方諸国の陶磁器が大量に持ち込まれたことが、焼物としての質を高め技術の向上につながったと言われています。
15世紀の始め頃に海外から輸入されたと言われる蒸留酒は、南蛮甕に貯蔵されていました。
荒焼の壺や甕の製造技術はこの時に導入され、読谷村(よみたん)の喜名(きな)窯や沖縄市の知花(ちばな)窯では、泡盛を貯蔵する甕作りに活かされたと、見解を述べる学者もいます。
また1616年には、薩摩から招いた朝鮮人の陶工、一六、一官、三官が朝鮮式技法を指導し、1670年には平田典通が中国技法を導入し技術を向上させました。
その後1682年に、王府の工芸産業振興政策の一環として、知花、宝口、湧田など地方に分散していた窯場を壺屋に統合します。これが壺屋焼の始まりとなりました。
当時焼物は、王府への献上品としても利用され、陶工は功績によっては、士族に取り立てられたこともありました。壺屋焼は、ぽってりとした厚手の成形が特徴のひとつで、刷毛目、印花、象嵌、線彫り、掻落などの技法を用い装飾を施しています。
厚挽きするのは、沖縄で取れる赤土の焼成強度が弱いためと、厚手の方が持ちやすく、琉球料理を盛るのに適していたからだという説もあります。
明治に入り、本土から安価で丈夫な磁器製品が移入するようになると苦戦を強いられるが、民藝運動の創始者である柳宗悦らが高く評価をするなど、壺屋焼の高い技術は後世まで受け継がれ、現在も多くの職人が伝統を守っています。
●やちむんの種類と特色
上焼(じょうやち) 赤土の上に白土で化粧掛けしたり、釉薬を掛けた焼物を上焼と呼び、約1200℃で焼成する。釉薬は、水漏れを防いだり、汚れをつきにくくする効果もあり、食器や花器など日用品のほとんどが、上焼で作られます。
透明釉や呉須など数種類の釉薬があり、焼き方によっても色が変化する。 荒焼(あらやち) 釉薬を掛けない焼物を荒焼と呼ぶ。約1000℃で焼き上げ、装飾はほとんど施されず、泡盛や穀物の貯蔵用として作られたり、飲料水などを溜める大きな甕や壺など、実用品が多い。陶土は、黒土(ジャーガル)と赤土(島尻マージ)を混合して作られます。
琉球のやきものは、六百年ほど前から中国や朝鮮、日本、東南アジアの国々の影響を受けながら、その色彩、技法、形において、琉球独自のものを形成し、発展してきました。
形も、鉢、徳利、碗、皿、壺、香炉、花立、茶器など、あらゆる生活用品が生み出され、逞しく力強い造形が見所です。
記録によると、17世紀頃、沖縄が琉球と呼ばれていた時代に、当時の政府が焼き物産業を発展させようと考え、現在の沖縄那覇市壺屋に、各地に点在していた窯場を集め、焼き物の里をつくったことが始まりとされています。
1970年代に入り、黒煙による害のため、市街地ででの登り窯の使用が出来なくなり、登り窯での制作にこだわる職人たちが、読谷村に窯を移しました。現在、読谷村は焼物の一大産地として知られるようになり、観光客を始め、多くの人で賑わっています。
さらに、その活力に引き寄せられるように、琉球硝子やシーサーといった、沖縄の伝統工芸の多くの作家たちも読谷村に工房を構え、読谷村は芸術の町として成長を続けています。
芸術として発展
記録によると、17世紀頃、沖縄が琉球と呼ばれていた時代に、当時の政府が焼き物産業を発展させようと考え、現在の沖縄那覇市壺屋に、各地に点在していた窯場を集め、焼き物の里をつくったことが始まりとされています。
1970年代に入り、黒煙による害のため、市街地ででの登り窯の使用が出来なくなり、登り窯での制作にこだわる職人たちが、読谷村に窯を移しました。現在、読谷村は焼物の一大産地として知られるようになり、観光客を始め、多くの人で賑わっています。
さらに、その活力に引き寄せられるように、琉球硝子やシーサーといった、沖縄の伝統工芸の多くの作家たちも読谷村に工房を構え、読谷村は芸術の町として成長を続けています。